「作品の奴隷」(by常田大希)

 今回は言わずと知れたKing Gnuの常田大希氏の言葉「作品の奴隷」の考察について、ちょっと興味深い資料を手に入れたので、そこから話を繋げていこうと思っている。

 今日読んだ本。芥川賞作家「川上未映子」さんのエッセイ集『世界のクッキー』から、「作家は物語のためにいる」の章に書いてある文章の引用である。

「物語は残っていても、人は誰も残っていない。そしてまた、人に読まれて継がれてゆくのも、物語以外にはありえない。そんな風にそれぞれの物語がそれ自身を認識させるために作家を選んでやって来て、俺は夢野久作、あたしサリンジャー、じゃあ僕は尾崎で、といった具合で作家は文字通り使い捨て、まさに物語のためにあり、われわれ読者が発見するのは結局いつも、物語そのものなのである。」(川上未映子『世界のクッキー』より引用)

 物語は長く受け継がれていく。

 その物語に選ばれた人物は、その物語を世に生み出すために、ときには過酷な労働時間を要し、ときには血を流すこともあるのかもしれない。

 だがそれがクリエイターの性(さが)である。

 物語に選ばれてしまったのだから、やるしかないのである。なぜならその物語はこの先、何十年も、何百年も、誰かに読まれるため、聴かれるため、観られるために存在するのだから。

 時に、その物語を作った作家さんのことを「先生」と呼ぶことがある。

 ここで言う「先生」という言葉は、もしかしたら「作品の奴隷」の代名詞で、尊敬と慰めの意味が含まれているのかもしれない。

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