灯台下暗し

 今日も暑い。この暑さは何なのか?

今年の暑さの中では特にそうなのだが、自分は今までとは違って、この過酷な状況の中で無理やり漫画を描くためにパソコンを起動することをしなくなった。

今までは、どんな状況下であっても、色々場所を変えたりしながら漫画を描ければいいや。みたいなことを考えていて、その環境に合った漫画用のデバイス探しなんてのをやっていたが、どうもそれがベストとは言えない環境であることに気づき始めた。

例えば、単純にipadだけを持って、空調の効いた場所に行ったところで漫画の続きは描けないのだ。

様々な資料や模型やネットに囲まれた場所の方がやはりベスト。つまり家がベストだと言える。

そのベストの環境が暑くて厳しかったら、無理やりやらないようにしている。無理やり部屋にエアコンをつけてまでやるということも現状では考えてはいない。

最近は制作の作業の「負荷」について考えている。

今までは全くそんなことは考えず、黙々とやることだけを考えていたのだが、芥川賞を受賞した市川沙央の会見を聞いていて少し考えが変わったと思う。

市川さんは、「文章を書くというのは負担が軽い作業」みたいな内容のことを言っていた。

この「負荷」というのは、体力的な負荷のことで、制作自体の難しさのことではないと思う(なぜなら文章は難しい)。

自分は自分が漫画を描くときの体力的な負荷のことなど、全然考えたことがなかった。

あぁ、そういうことか!と納得した。

まぁ、漫画は週末に集中的にやるとしよう。

さて、今回のテーマは「灯台下暗し」ということなのだが、何が「灯台下暗し」なのか?というと、それは「言葉」と「日本語表現」についてである。

おおよそ私達が普段話しているのは「言葉」であって「日本語表現」ではないと思う。

自分が思う「日本語表現」というのは、気温や湿度があり、匂いがするものだ。

同じ日本語でも「言葉」と「表現」では違うということだ。

「日本語表現」と言っても、古文のようなものでもなく、難しいものでもなく、おそらく調べればすぐ見つかるものだ。

重要なのはその「組み合わせ方」だと思う。

いかに読み手(聴き手)に違和感なく、気温や湿度や匂いを伝えることができるかだ。

小説の描写表現でも、それらの表現を上手く組み合わせてできた文章は素晴らしい。

音楽で言うと、ユーミンの「春よ、来い」は日本語表現の組み合わせが素晴らしいと思う。

あの歌詞はそれほど難しい表現を使っているわけでもなく、とてもシンプルに、だが気温や湿度や匂いがする歌詞だと思う。

つまり「灯台下暗し」というのは、日本語表現を使いたければ、言葉を学ぶよりも、日本語を学んだ方が、より表現に近づくということだ。

日本語を学ぶなんて「おいおい外人かよ!」って思うかもしれないのだが、その先入観が「灯台下暗し」ということである。

追伸 市川沙央さんの言う通り、文章を書く行為は、漫画を描く行為よりも、体力的な負荷は軽いようだ。そこの環境を新たに構築しようと考えている。

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