今日はとくに書く内容がない日である。
ただ僕の場合、とくに書くことがない日でも、何かしら書くことができるように(いつの間にか)訓練されているようで、なのでこうやって書いてみるのである。
ところで、以前はX(旧Twitter)の方でも色々書いていたことがある。今ではもう書くことはほとんどない。理由は色々だが、まぁ、もう目的は果たしたのだから別に書く必要もあまりないかな。
もしかしたら、僕のXの投稿を読んだことがある人もいるかもしれない。当時のX(旧Twitter)の文字数制限は「日本語では全角140文字、半角では280文字以内」らしいのだが、その文字数制限内でビシッと言葉を入れてくる時もあった。それは自分のアカウント内の投稿ではなく(自分のアカウント内は繋げて書くことが多い)、「相手への返信」である。
「相手への返信」には文字数制限内で書いていたのだが、たった「日本語では全角140文字、半角では280文字以内」の文章を書くのに、僕はおよそ2〜3時間くらいはかかっていた。文章というのは「同じ内容」の場合、長い文章を書くよりも短い文章を書く方が時間がかかるのだよ(知っとけよ!)。
文章というのは、ひたすら毎日毎日書いていれば、結構自由自在に書けるものだ。
僕の場合、毎日変態(仮称)にお便りを書いていたから、いつの間にか自由自在に文章を書けるようになっていったのかもしれない。まぁ、読む相手がいた方が書きやすいからね。
自由自在といっても別に小説が書ける訳でもないのだが(あれは別の能力も必要である)、やはり僕の文章は「お便りっぽい」のでしょう。
そうだなぁ、、、これは分かる人には分かると思うのだが、「文章が先か、文章でない能力が先か」。文章だと書くのにコントロールが効くのだが、文章ではない能力については僕の場合全くコントロールができず、それは今もなのだが、文章ではない能力を自分の中で中和するために文章を書いていたのかもしれない。ただ最初の頃はそれすら上手くいかず、精神的にもキツイ時期があったと思う。
要するに、自分の感覚に負けまくっていたというか、、、だからかなぁ、変態(仮称)に毎日お便りを書くことによって自分のバランスを保っていたのかもしれない。今でもそうなんだけど、変態(仮称)にお便りを書く時は「日常のな〜んてない事」を書くことが多い。ただたまにおかしなことも書くことがあるでしょ。で実際、変態(仮称)も「あっ」って思うこともあったのかな。知らんけど。
今は当時よりも慣れてきたが、その時(時期)はあまりにも異常過ぎて何度か「普通がいい」なんて書いていたのかもね。まぁ本当にその「何かしらの能力」があるのかは分からない。ただちょっとばかり鈍感なバンドを公開処刑させるくらいのパンチはあったかも知れない(映画の宣伝をちゃんとしましょう)。
何はともあれ文章というのは、僕にとっては基本自分自身のバランスを保つためのツールってことでいいっすか?