今日は「表現」について書こうと思う。
と思っていたら、GACKTさんがXで既に自論を述べていた。
今はテレビで「YOSAKOIソーラン祭り」を観ている。毎年行われているイベントだけに、昔ほど食い入るように観たり、現地に行ったりはしてない。まぁ前回行った時はKing Gnuのように職質にあったし、昔みたいに立ち止まって観ることもできないようになっている(チケットを買って観覧しなければならない)。
とはいえ、テレビで踊り子達の演舞を観ていると、ある種の感動をおぼえる。もちろん地元で行われているイベントなので、時間経過も同じ。日が出て、沈むまでの時間もシンクロしている。そういう意味では没入しやすいし、現地で観たらきっと、さらなる感動をおぼえるだろう。
「感動」というのは色々あるもので、「映画を観て感動した」「音楽を聴いて感動した」「物語に感動した」とか。ただここでの感動というのは「その状況に身をゆだねる感動」だと思う。なので踊り子さん達が一番感動しているのかもしれません。
で、何でこんな話をしているのかと言うと、今日はお昼頃に支笏湖に行ってきました。

観光船に乗りたかったのですが、あいにく波があったので観光船の運行は中止でした。陸にいる分には、それほど風が吹いているようには思えないのですが、水上はそこそこ風の影響を受けているようだ。
少し観光をして「まぁまぁ観たかな」と思って時計を見てみると、15分くらいしか経ってなかった。「あれ?」って思ったんですよね。「自分の感じている時間」と「自然の時間」の経過がシンクロしていないような気がした。
要するに、きっと自分は「自然に身をゆだねていない」のだろう。もちろん支笏湖の自然の景色は綺麗で素晴らしいと思う。ただ自分はそれほど感動していないのだ。

自然に身をゆだねる方法。とりあえず体を使ったアクティビティでもやれば、自然と自然に同期される。それは簡単なことだ。ただ普通に観光しに来ている おばちゃんは、そんなことをしなくても自然に感動しているように見えた。
原因は自分であることは分かっている。現状自分は支笏湖での感動を表現できていないのだ。どうすればいいか?支笏湖で水あびでもするか?昔はチャリに乗って遊んでいたが。ただそうしなければ感動を表現できない輩なのか?
GACKTさん、人はいつの間にか「感動を表現する」のを忘れてしまうものなのでしょうか?昔は色んなことに普通に感動していたような気がするのですが。
今はその改善策を考えている。